人気ブログランキング | 話題のタグを見る

いらっしゃいませ

気ままな旅のつれづれにこのブログサイトの命名者は、アコーディオン奏者のらくさんです、旅行記を備忘のためとて書きとめていたものが、彼女の眼に触れ 勧められるがままにこのブログを書き始めることになりました。
 人生は旅である、旅もまた人生だ。遊行期にあって真の自由を得たい、行きたいところ、知りたいこと、やりたい事が沢山ある、出来そうな気はするが不安もある。健康であること、多趣味なこと、好奇心はまだあることを頼りに楽しんで生き、それらをちょっと書き留めておきたい。
現役時代、それは32年間のM造船、5年間の高専、7年間の私大(いずれも定年を待たずに希望退職を許してもらったことに感謝)での生活で比較的恵まれたものであった、しかしそれでも現在の精神的な自由を得た生活から見ると、娑婆の制約された生活だったと、懐かしくも、愛おしくもあり、殊勝であったと思う。そのような心境から、次の1句をひねってラジオ川柳番組に投句しました。
 「もうえーわ 自由 広がる 蚊帳の外」
よく出来た、入選するのではと内心ほくそ笑んでいたのですが、見事落選でした、補足ですが私は丑年です。
私の趣味は、このほか、旅行、ハイキング、MTB、畑仕事、囲碁、読書、絵画などです。PC点訳のボランティア(結構繁盛しています)もしています。
 精神的な自由を放任すると、自己中になりがちな事は経験済みです、引力を感じます。これを牽制する尺度として私は仏教の教えを持ちたいと思っています。それをもっと知りたいとあせるのですが、老人力が足をぴっぱって牛歩状態のこの頃です。
よろしくお付き合いいただくと、ありがたいです。    
 old-TAK(岩城 嵩、いわき たかし)
いらっしゃいませ_b0156451_1213954.jpg


記事のタイトルは次のようなものです。
これをクリックするとその内容を示すページに飛びます。
(いたずらが多いため、コメントを受付けを閉じています。iwaki@mx8.kct.ne.jpへ メールでいただければ幸甚です。)

シベリア鉄道9300km
アメリカ西海岸ぶらり旅
シベリア鎮魂画家 香月泰男の作品を訪ねて
漫筆  川柳、エッセーを集めました
徒歩ほの四国遍路1200km 
ルルド・ヌベールへの巡礼の旅・・
ラッキーな北国周遊ドライブ紀行 
西国33ヶ所順礼記  
スイス旅行記  
小豆島88ヶ所遍路 
児島八十八ヶ所 -サイクリング遍路 
異教徒の住む家庭のつぶやき
アメリカ巡礼紀行”
右脳の働きとは何ぞや”
我輩は犬である ”
2013年1~12月作品集
2014年1~12月作品集
2015年1~12月作品集
2016年1~12月作品集 
2017年1~12月作品集 
  

# by houro-ki | 2019-12-01 11:57 | はじめまして  

河井寛次郎展を観て

 河井寛次郎展を観て  

    岡山県エッセイストクラブ クラブニュース

    第67号 平成31年1月1日                


平成30年秋、「没後50年、河井寛次郎展」が篠山の兵庫陶芸美術館にやってきた。梅棹忠夫氏によると、氏の作品の持つあらあらしく、強烈な面は、縄文以来の日本人の魂が、地霊となって姿をあらわしたようだ」(1)と絶賛されている。私もまた、青年期より、京都の同記念館、倉敷の大原美術館などを訪ね、いつの間にか作品に魅了され、氏のフアンの一員になっていた。

今回は、約200点の代表作が集められていた。 一人でゆっくり静かな会場を観て回った。作成時期別に系統的に並べられた作品に接して、かつて感じた熱い印象のカケラをほのかに思いだした。

陶芸、木彫、版画分野の名品もたのしく拝見したが、氏の文章も素晴らしく、深い知識と、哲学を背景に短歌のように韻を踏んだ、無駄のない名言の展示も興味のそそるものであった。その中で次の一句が特に印象深く感じた。

「此の世 このまま 大往生」

と、画像付きの名言である。癖のある文字に囲まれた中央部に、玉を戴き合掌する手が描かれ、その玉の右半球は白、左半球は黒に描かれた版画である。

この作品を素直に読めば、「日常生活で接した事柄を批判せず、反論せず、ありのまま受け入れる、それがよいのだ」となる。素朴で教訓的な言葉だが、氏の強靭性との不一致が私には理解できなかった。横に貼られた解説文によると、終戦の直前のある日、この名言が「閃いた」と記している。何が起こったのか、なぜだ! 後期高齢者の私の脳はすっかり動転、混乱状態に落ち込んだ。と、その瞬間・・・私までも閃いてしまった。

戦争末期の最も厳しい戦時統制下、京都とて、食糧難で、かつ大空襲に明日にも晒されそうな非常事態の中である。当然、窯をたくことは禁止され、また、戦闘意欲を誘うような陶芸作品は氏には作れなかった。自由を奪われた芸術家は暗黒の日々を強いられていた。敗戦ともなれば、勝者の鬼による支配というさらなる地獄を想定されていた。これが「此の世」であった。

しかし、より広い世界観でこの事態を客観視すれば、それは逆で、敗戦は大衆の暗黒世界からの脱出の好機、このまま素直に変化に身を任せるのも一策とも考えられる。氏はこの国際感覚から導かれる自然な流れに確信を得て閃いたのではなかろうか。そして、今までの世界(球体の黒い部分)が、劇的に希望の陽がさす世界(球体の白い部分)に転ずるのだ。それは戦争のない世界、大往生の世なのだ。・・・ これが名言の真意ではなかろうか。

平成31年新年の今、政治、経済、文化までもが大きく変化しようとしている。普遍の価値観を持って、次の時代へ夢を持って歩みだしたいものだ。

参考文献(1):河井寛次郎記念館編、河井寛次郎の宇宙、1998、(株)講談社


# by houro-ki | 2019-04-30 16:47 | 自選エッセイ集  

国語実習 インタビュー

 国語実習 インタビュー

広島に住む中2の孫息子Sから名指しで突然電話があった。いつもは妻経由の情報入手ルートなので、何事かと緊張して出てみると、Sも緊張気味でかつ丁寧語をしゃべる。オレオレ詐欺の類かと警戒度を上げてみたが間違いなくSであった。 取材者としてインタビュー相手を私に依頼したいという事であった。快諾したのは言うまでもない。タブレットの画像付き対話話機能を始めて使うことになった。

 「インタビュー」とは、国語甲の授業中での課題であり、テーマは「その人の少年時代の暮らしや、心に残っている出来事を取材し記事としてまとめること」であった。

私の中学時代は昭和25~27年で和歌山市に住み、戦後復興がやっと軌道に乗り始めたころである。中学校の数も先生も少なく、教育内容も改編途上であった。和歌山市内最大規模の伏虎中学校では同一学年のクラス数は12もあった。私はまだ勉強する楽しみが分からず、グズグズしていたこと、それでも算数と英語は好きになりかけていた(この点はSも僕と一緒やと共感した)。

英語は、今のアメリカの話し言葉を使えることを目標とするのではなく、純正英語で例えばシェイクスピア劇の有名で易しい文章部分などが教材になっていた。マクベスの有名な独白文「to be or not to be ,that is the problem」は中2で教わり今も覚えているものだ。Sにもその意味を伝えると、僕ももっとこんな英語も知りたいと言っていた。

中学生の国語教育の一端を協力させていただく機会を得た。

「インタビューによって得たものは何か」。「語り側が注意すべき事」。「取材者側の心得」。

この他、取材者としての礼儀作法、校正をお願いすることによるプライバシーの尊重と言った要素も配慮されている。


# by houro-ki | 2019-04-30 16:25 | 自選エッセイ集  

2019年1~12月作品集

      2019年1~12月作品集

国語実習 インタビュー
河井寛次郎展を観て


# by houro-ki | 2019-04-30 16:13 | 自選エッセイ集  

伊勢路を歩く



伊勢路を歩く

1日目(523日 水)小雨

備前田井駅05:05発  宇野線、新幹線、大阪環状線、関西線、参宮線

12時頃伊勢市に到着。内宮参詣。小雨模様でしっとりとした玉砂利の広い参道は、別世界への入り口のようだ。そこに立つ直径2mほどの姿正しい大杉は厳かな雰囲気を醸し出していた。

本線三瀬谷駅、旅館大黒屋泊

伊勢路を歩く_b0156451_15023946.jpg

伊勢路を歩く_b0156451_14433947.jpg


2日目(524日 木) 晴

紀勢本線三瀬谷駅発0742、梅ヶ谷駅下車。国道を離れ、熊野古道伊勢路に入る。

荷坂峠(伊勢と紀伊の国境)から国道42号線をひたすら歩く。 紀伊長島駅から相賀駅まで空っぽ電車。

相賀駅から田舎道を歩き、ホテル新(セルフの宿?)泊。

伊勢路を歩く_b0156451_15100768.jpg


伊勢路を歩く_b0156451_15104090.jpg


  




伊勢路を歩く_b0156451_15085264.jpg







  
伊勢路を歩く_b0156451_15303881.jpg

日目(525日 金)  



4日目(526日 土)

5日目(527日 日)  未完



伊勢路を歩く_b0156451_15305371.jpg


伊勢路を歩く_b0156451_15500089.jpg
伊勢路を歩く_b0156451_15314346.jpg
伊勢路を歩く_b0156451_15474331.jpg
伊勢路を歩く_b0156451_15315499.jpg


6日目(528日 月)  憧れの串本



今回の熊野古道・伊勢路編に追加したところ、それは串本だった。

串本あれこれ

民謡串本節「ここは串本,向いは大島。仲を取り持つ巡航船。・・・」、約60年前、私は学生服姿で、だみ声でこれを熱唱した思い出がある。

当時、私達たち家族は和歌山市に住んでいた。姉の夫となる人(義兄)は三重出身である。大阪で挙げた二人の結婚式で私は両県に縁のある串本節を歌うよう強制された。しかし、訪れたことのない場所、いずれ行かねならない宿題の地でもあった。今では巡航船はなく、立派な橋で大島は結ばれている。

私は灯台の見える風景が好きだ。闇を突いて進む船舶に、進むべき確かな方向を光と汽笛で知らせる。あの孤独で威張らない道案内。人生航路の無量寿光の働きに似て頼もしい。ここ本州の最南端。潮岬灯台と、大島にある樫野崎灯台がある。伊勢路を歩く_b0156451_11302654.jpg


潮岬灯台の主な仕様は、97万cd(カンデラ 光源の明るさの単位、語源的解釈ではローソク1本の明るさが1キャンドル:1cd、厳密な意味は省略)。光到達距離35km。塔高22.5m(灯火標高49.5m)。初点燈1873、年。江戸条約で主な外国と建設を約束し日本の「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計・指導した8灯台の一つ(白色石造り、当初な木製であった)。塔頂の展望代から見える太平洋の大パノラマ、下方の岩場は白く打ち寄せる波が砕けている。ここは黒潮の曲がり角、流れも早そうだ。はるかに見渡す水平線は微かに円弧状である。視界には数隻の大型外航船が見える、海上交通の要所。時にジェット旅客機が上空を通過する。空路の要所でもある(かも)。

この日はできるだけ辺鄙で往年の良き日の面影を残す民宿をと、紀伊大島の漁村に通じる裏山の中腹の民家を選んだ。もちろん客は私一人である。大婆さんが主で食事の準備などには近くに住む娘婆さんが協力してくれる。イセエビのムニエルなどと新鮮な刺身のいろいろと

何でもありのごちそうであった。ビールは大瓶しかないので、持参のウイスキーのオンザロックであった。

この串本町と向き合う孤島、大島(今は立派な橋で結ばれているが)にも、必見の名所がある。樫野崎灯台である。

伊勢路を歩く_b0156451_11364923.jpg




その主な仕様は、53cd、光到達距離34km。塔高14.6m(灯火標高47m)。上述の8灯台の一つで、初点燈1870年。日本初の白色石造灯台と言われている。

トルコ記念館  明治23年(1890年)6月トルコ皇帝特派使節団650名を乗せた軍艦エルトゥルル号は日本との修好の使命を果たし、916日には帰国の途、熊野灘を航行していた。


伊勢路を歩く_b0156451_11373103.jpg

この老朽化した木造艦(帆走併用の蒸気船)はその夜、台風に遭遇し樫野埼灯台の直下の岩礁で難破した。587名の将兵が殉職、生存者は69名だった。灯台職員を始め寒村の住民は挙って救出、治療、食糧、衣服など可能な限りの援助の手を差し出した。国も軍艦2隻を出し帰国の便を提供した。当時のニ国の情勢は、カゲリを見せ始めていたとはいえ、大国オスマントルコ、弱小国ながら日露戦争で名をあげた日本は互いに敬愛、友好の土壌が発生したようだ。立派な「遭難者の碑」では5年ごとに盛大な祈念式典が続いている。



伊勢路を歩く_b0156451_11361225.jpg

その近くに、大きなトルコ絨毯販売店がある。玄関口ではトルコ人の店主がアイスクリームを売っている、粘りがあってトルコ風味だ。アイスクリームは分かるけれど、こんな辺鄙なところで大きな絨毯を並べ、どんな営業センスなのかと思った。 が、利益は東京や大阪店で頑張っていて心配ご無用。店主はこの地こそ両国の商人の交流友好の原点、この原点の思想を忘れてはいけないと、声を大きくしていた。立派だ。



この他、橋杭岩、串本海中公園センターなどでもユニークなものを見ることができた。


# by houro-ki | 2018-07-07 13:18 | 自選エッセイ集